LOGIN城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が
探索に持ち出す道具を長卓へ並べ終えた頃には、広間の床へ淡い紫の光が落ちていた。天井に埋め込まれた王域の結晶灯は時間によって明滅するらしく、眠りから覚めてしばらくすると、夜を模した青黒い色から柔らかな薄紫へ変わる。地上の朝日とはまるで違う。それでも、いつまでも同じ暗闇だった奈落に目安となる光があるだけで、人の身体は不思議と時間を思い出すらしい。子どもたちは食事を終え、水路で顔を洗い、三匹の月角兎は広間の隅に積まれた青苔へ鼻先を埋めていた。リュゼルは長卓の上に水袋を二つ置き、縄を巻き直した。保存食、火口箱、薬草、包帯、解体用の小刀、革手袋、予備の灯石。昨日作った地図は湿気を避けるため革筒に収め、黒鎖短剣は腰へ差してある。死者溜まりそのものへ踏み込むつもりはないが、何が起こるか分からない以上、持てるものは持っていくべきだった。問題は、誰が行くかだった。「俺一人で行く」革紐を締めながら口にした途端、向かい側から冷たい声が飛んだ。「却下よ」リュゼルは顔を上げた。ネフィリアは長卓の反対側に立ち、両腕を組んでいる。封印が完全に解けた今、手首にも足首にも黒い枷はない。数百年にわたって彼女を柱へつないでいた六本の鎖も消え、白い肌には薄い傷痕だけが残っている。黒紫色の簡素な衣服は王域が生み出したものらしく、動きやすい細身の長衣に膝下までの革靴という姿だったが、その立ち方には拘束されていた頃とは違う静かな威厳が戻っていた。「まだ何も説明してない」「説明する前から分かるもの。あなたが一人で死者溜まりへ行こうとしているのでしょう」「中には入らない。周囲を見るだけだ」「昨日も同じようなことを言っていたわね」「実際、そのつもりだ」「あなたの『そのつもり』ほど信用できないものを、私は今のところ知らないわ」子どもたちが朝食の後片づけをしながら、二人のやり取りへ視線を向け始めた。シュカに至っては、水で濡れた皿を布で拭く手を完全に止めている。リュゼルは子どもたちの前で言い争うつもりなどなかったが、ネフィリアの表情を見る限り、こちらが折れなければ静かに終わる可能性は低そうだった。「城を空けるわけにいかないだろ」「なぜ?」「なぜって」「王域の結界は私が外へ出ても消えないわ」「でも、城から離れるほどあんたの魔力は弱くなる」ネフィリアの眉がほんのわずかに上がる。事実だっ
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ
天井が落ちた。巨大な石塊が黒紫色の魔力に触れた途端、粉々に砕ける。砂塵が一気に舞い上がり、視界が灰色へ染まった。折れた柱が回廊を塞ぎ、床から噴き出した魔力が黒い雷のように壁を走る。「ネフィリア!」リュゼルは叫びながら腕で顔を庇った。返事はない。中心にいるネフィリアは、両足を床へつけてすらいなかった。銀白の髪を逆巻かせ、ほんの少し宙へ浮かんでいる。背中から広がった巨大な黒紫色の翼が、彼女の細い身体に到底収まるとは思えないほどの魔力を放ち続けていた。完全に解放された力。数百年分。本来なら長い時間をかけて身体へ馴染むはずだったものが、一度に戻っている。「シュカ!」奥の部屋へ向かって叫ぶ。「みんな連れて奥へ!」返事。聞き取れない。だが子どもたちの足音が遠ざかっていく。逃げるなら今だった。神殿そのものが崩れている。出口まで走れば、間に合うかもしれない。ネフィリアを置いて。その考えが頭を掠めた瞬間。リュゼルは自分でそれを切り捨てた。できるはずがない。自分が手を伸ばすと決めた。掴むかどうかは彼女に任せる。だが、彼女が掴んだ後でこちらから手を離すつもりはなかった。「ネフィリア!」魔力の奔流へ飛び込む。肌が裂ける。見えない刃で切り刻まれるような痛み。外套が破れる。それでも進む。一歩。二歩。ネフィリアまであと少し。翼が動いた。吹き飛ばされる。背中から床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。「っ……」起き上がる。右腕の墓碑紋が熱い。完全契約はまだ切れていない。なら。つながっている。彼女がどれほど深い場所に沈んでいても。「もう一回だ」自分へ言い聞かせる。走る。今度は翼が振られる前に飛び込んだ。ネフィリアの身体を抱く。冷たいと思っていた肌が、今は焼けるほど熱かった。「離れ……」声。聞こえた。「ネフィリア?」「離れて……」本人の声。だが苦しげだ。「殺す……」「誰を」「全部……」抱いた身体が震える。黒竜の記憶へ呑まれた自分と似ている。しかしネフィリアの中にあるのは、一人分の記憶ではない。深淵王家。滅びた一族。その血に刻まれた魔力。何百年もの封印。怒り。恐怖。孤独。全部。「渡せ」リュゼルは彼女の背へ手を回す。「魔力を俺へ流せ」契約へ意識を向ける。
ネフィリアが「自由になりたい」と口にした瞬間、地下神殿は、長い眠りから目覚める獣のように身震いした。床に刻まれていた古代文字が一斉に黒紫色の光を帯び、何百年もの間、埃と血に埋もれていた溝を光が走っていく。柱から柱へ、壁から天井へ。振動は次第に大きくなり、継ぎ目から細かな砂が降り注いだ。奥の部屋で休んでいた子どもたちが不安そうな声を上げ、三匹の月角兎が物陰へ駆け込む足音が聞こえる。「ネフィリア、下がれ」リュゼルは反射的に彼女の前へ出た。だが、下がれる場所などない。ネフィリアの首と腰、両足から伸びる六本の黒鎖が、何者かの手に引かれたように空中へ持ち上がっていた。金属でできているはずなのに、鎖の表面が濡れた生き物の皮膚のように脈打つ。黒い魔力が一節ずつ膨れ、それぞれの先端から床へ滴り落ちた。一滴。二滴。黒い雫が石床へ触れるたび、人の形へ盛り上がる。鎧。兜。長剣。最初の一体が姿を現した時、リュゼルの右腕に刻まれた墓碑紋が激しく焼けた。「……こいつら」ネフィリアの声が低くなる。六本の鎖から、一体ずつ。計六体。全身を黒銀色の重鎧で包んだ騎士が、半円を描くように二人を囲んでいく。顔は兜の奥に隠されている。目に当たる隙間には赤紫の光だけが灯り、そのどれからも生者の呼吸は聞こえなかった。生きていない。だが、ただの人形でもない。「《刑罰騎士》……」ネフィリアの唇から、絞り出すように名が落ちた。「知ってるのか」「深淵王家の処刑に使われた魔法人形よ。正確には、処刑者たちの戦闘記録と意思を写したもの」彼女の頬から血の気が引いている。「王家に背くことを許さないための兵器だった。それが最後には、王家を殺すために使われた」六体の騎士が、同時に剣を抜いた。重い金属音が重なる。音だけで胸が圧迫される。「どうすれば鎖が外れる」リュゼルが問う。「おそらく」ネフィリアの視線が六本の鎖を辿る。「一体につき一本。あれを倒せば、対応する封印が砕ける」「全部で六」「ええ」「分かりやすいな」「笑っている場合?」「笑ってない」最前列の刑罰騎士が踏み込んだ。速い。重鎧の重量を感じさせない。リュゼルはネフィリアを抱くようにして横へ転がった。直後、剣が二人のいた床へ叩きつけられ、石が砕け散る。破片が頬を掠め、熱い筋が一本走った。立ち上がる
ネフィリアは、その夜ほとんど口を開かなかった。神殿に残された古い寝台へ腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、どこでもない場所を見ている。青白い鉱石灯が銀髪の輪郭だけを浮かび上がらせ、紫紺の瞳の奥までは照らさない。六本の鎖は、いつもと変わらず彼女の身体から伸びていた。首。腰。両足。そして背後の封印柱。何年、何十年、あるいはそれ以上。彼女はそれを当然のものとして身につけてきた。リュゼルは少し離れた場所で、肩の包帯を巻き直していた。片手ではうまく締められない。何度目かで布が緩み、舌打ちしそうになる。「貸して」ネフィリアが言った。顔はまだこちらを向いていない。「いい」「あなたは片手で巻くのが下手」「慣れてないだけだ」「慣れないで」短い言葉。リュゼルは手を止めた。ネフィリアが立つ。鎖を引きずりながら近づき、彼の横へ座る。包帯を受け取る。冷たい指先が肩へ触れた。布を解く。傷口を見た瞬間、眉間へ小さな皺が寄った。「深い」「動くから余計に開いた」「自覚があるなら動かないで」「ザハルに言ってくれ」「死んだ者へ説教する趣味はないわ」包帯を巻く手つきは意外なほど丁寧だった。少し強く締められる。「痛い」「罰よ」「何の」「私に同じ傷をつけた罰」「契約したのはそっちだろ」「だから腹が立つの」理屈が通っているようで通っていない。けれど、そのやり取りが終わると、再び沈黙が降りた。古地図は二人の前に広げてある。裏面の文字。《王女を解き放つな。彼女が望むまでは》リュゼルはその一文を何度も見た。ヴァルディオス。最初に看取った古代魔獣。彼の中にはその記憶の断片が眠っている。もっと深く潜れば、この言葉を書いた理由が分かるかもしれない。「調べる」リュゼルが言う。ネフィリアの手が止まった。「何を」「ヴァルディオスの記憶」「駄目」即答。「理由は」「分かっているでしょう」「でも」「駄目よ」声が強くなる。リュゼルは黙った。《葬送継承》で受け取った記憶は、ただの知識ではない。死者の感情。痛み。恐怖。願い。深く触れれば触れるほど、それらと自分の境界が曖昧になる。一度、ヴァルディオスの怒りに呑まれかけた。あの時はネフィリアの声で戻った。次も戻れる保証はない。「私のことで、あなたが自分